
「大下宇陀児」特集
異色かつ独自の存在感を放ち、一躍人気作家に。
農商務省臨時窒素研究所に勤務していた大下宇陀児は、同僚ですでに探偵作家として活躍していた甲賀三郎に触発されて探偵小説を書き始め、1925(大正14)年4月、「新青年」に「金口の巻煙草」を発表してデビューする。江戸川乱歩によって〈情操派〉に分類されたその作風は、当時の探偵文壇では異色のもので、一躍人気作家として多くの作品を発表した。
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そして、夢野久作、小栗虫太郎、木々高太郎といった新鋭を迎えた、1935(昭和10)年前後の探偵小説ブームでも、宇陀児の存在感は揺るぎない。単行本が次々刊行されていくが、その装幀には独得の雰囲気がある。
『奇蹟の処女』の装幀。黒白書房、1935年刊。
『狂楽士』の装幀。春秋社、1935年刊。
『狂楽士』の中扉。
『凧』の装幀。春秋社、1936年刊。
『凧』の見返しに入れられた著者サイン。
戦争中は執筆活動も滞ったが、1945(昭和20)年の終戦後は探偵小説の重鎮として作品を発表している。1951(昭和26)年、『石の下の記録』で第4回探偵作家クラブ賞を受賞。1952(昭和27)年から2年間、探偵作家クラブの会長を務めた。NHKラジオの人気クイズ番組「二十の扉」のレギュラー回答者として、その名は全国的に有名となる。
1955(昭和30)年以降、探偵小説/推理小説の出版が盛んになり、各種全集が企画されたが、そこにおいても宇陀児の名は欠かせなかった。
『悪人志願』の装幀。桃源社「書下し推理小説全集」に収録された。1959年刊。
1965(昭和40)年7月28日に没した江戸川乱歩の葬儀委員長を務めた宇陀児は、その後を追うかのように翌年8月11日、心筋梗塞で死去した。墓所は多磨霊園の西の端にあり、東の端には乱歩の墓がある。奇しくも二人は同じ年、1934(昭和9)年に豊島区池袋に居を構え、親交を深めた仲だった。