「三大奇書」特集
日本ミステリ史に燦然と屹立する三つの高峰
夢野久作『ドグラ・マグラ』、小栗虫太郎『黒死館殺人事件』、中井英夫『虚無への供物』は、「三大奇書」と呼ばれている。「三大奇書」の呼称を最初に使った人物には諸説あるが、「幻影城」の1978年10月号で金田一郎(二上洋一の筆名)が用いたのが早い使用例とされている。編集者で俳人の齋藤愼爾と作家で評論家の埴谷雄高は「三大奇書」を「黒い水脈」と称しており、(三大)アンチ・ミステリとまとめられることもある。
迷宮の中を彷徨っているかのような『ドグラ・マグラ』、探偵・法水麟太郎の衒学趣味的な推理に圧倒される『黒死館殺人事件』、氷沼家で起こる不気味な事件をめぐり、奈々村久生、光田亜利夫、牟礼田俊夫、藤木田誠が推理合戦を繰り広げる『虚無への供物』は、いずれも長大で、不可解な事件が起こり、それを探偵(役)が推理するというミステリの定型に沿って進んでいく。だが、終盤になると探偵(役)の推理により謎が論理的に解かれる展開を拒否し、読者の予想を裏切る驚愕の結末に着地するという共通項があり、それがアンチ・ミステリとされる理由である。
かなりのミステリ好きでなければ躊躇するほどの長さがあり、難解な用語が多く、物語が複雑怪奇に入り組んでいくので挫折する読者もいる一方で、作者が用意した小さな仕掛けも多く、それを読み解くために何度も読み返すマニアがいるのも「三大奇書」の特質といえる。
金田一郎は先に挙げた「幻影城」の中で、編集長の島崎博が「三大奇書」に竹本健治『匣の中の失楽』を加えたものを「四大奇書」と呼んでいたと書いており、現在では「四大奇書」も広く知られるようになっている。日本のミステリは「三大奇書」の伝統を受け継いでいるだけに、これから第5、第6となる奇書が誕生することで発展していくのではないか。
『ドグラ・マグラ』は、夢野久作が構想20年、何度も改稿し執筆に10年をかけた大作で、1935年1月に松柏館から書き下ろしの単行本として刊行された。
約1000枚の原稿を書いた夢野は、懸賞に応募し2等入選した「あやかしの鼓」(これが夢野名義での第1作)を掲載(1926年10月号)してくれた雑誌「新青年」の編集長・水谷準に送るが、あまりに長過ぎることもあって書籍化されなかった。次いで夢野は作家で編集者の佐佐木俊郎に新潮社を紹介してもらうが、600枚に削るか、600枚の別の作品を書くかを迫られた。夢野は別の作品を書くことにし、誕生したのが『暗黒公使』(『新作探偵小説全集』第9巻、新潮社、1933年1月)である。夢野は、梅津只圓から喜多流の能を学んでおり、宙に浮いていた『ドグラ・マグラ』の原稿に救いの手を差し伸べてくれたのが、喜多流の謡本を刊行していた春秋社だった。春秋社は早いペースで校正、印刷、製本を行い、春秋社の流通、販売を行っていた松柏館刊として世に出た。1938年5月に刊行された普及版『ドグラ・マグラ』は、春秋社発行、松柏館発売となっている。
作中で「ドグラ・マグラ」は、「維新前後までは切支丹伴天連の使ふ幻魔術」を意味する「長崎地方の方言」で、「只今では単に手品とか、トリックとか云ふ意味にしか使はれてゐない一種の廃語同様の言葉」と解説されている。この一節の通り、『ドグラ・マグラ』は「…………ブウウーーーーーーンンンーーーーーーンンン…………」という音で始まり、「……ブウウウ…………ンン…………ンンン…………」の音で終わる円環構造になっており、その中に大型の壺にも向かい合った老婆にも見える図地反転図形の代表作「ルビンの壺」(あるいは『荘子』にある「胡蝶の夢」)のように、主人公が昏睡と覚醒を繰り返すうちに、どちらが現実でどちらが幻想か判然としなくなる。それだけに、読者も思考の迷路に取り残されてしまう。
『ドグラ・マグラ』は、読むと精神に異常をきたすといわれるが、これは1976年に刊行された角川文庫版の帯のキャッチコピーで広まったとされている。
『ドグラ・マグラ』単行本は1935年1月、松柏館から函入りで刊行された。
函の背のデザイン。
『ドグラ・マグラ』単行本の化粧扉。
『ドグラ・マグラ』本文の冒頭のページ。
小栗虫太郎『黒死館殺人事件』は、雑誌「新青年」の1934年4月号から12月号に連載された後、1935年5月に新潮社から単行本として刊行された。
初版本には、江戸川乱歩の「極言すれば、この作には既に書かれた、又これから書かれるであらう、あらゆる探偵小説の素材が、集大成的に包含されてゐる」、甲賀三郎の「『黒死館殺人事件』を最初の長篇として、文壇に出た小栗虫太郎は今後どんな発展をして、その怪物ぶりを発揮するだらうか。読者諸君と共に、私はそれを楽しみにしてゐる」という大賛辞を贈った「序」がある。また小栗自身による「著者之序」には、「連載中は、褒められるにも、誹られるにも、悉く最大級の用語を以つてせられた」「その渦の中で、私は散々に揉み抜かれたのである」「また一面には、狂熱的に支持してくれる、読者も数多くあつて、殊に、平素探偵小説など、見向きもせぬと思はれるやうな純文学方面から、霰々たる激励の声を聴いた」「さうして回を重ねて行くうちに、案外、生え抜きの探偵フアンの間にも、私の読者が少なくないのを知つて、心強くなつた」とあり、作品が受け入れられていく過程がうかがえるのも面白い。
「私鉄T線」の終点、神奈川県の丘陵にある黒死館は、千々石清左衛門(洗礼名ミゲル)が「カテリナ・デイ・メデイチ」の隠し子とされるカペルロ・ビアンカに生ませた子供が興した降矢木家の屋敷で、降矢木算哲によって建てられた。何度も変死事件が起きている黒死館で算哲が「奇怪な自殺」を遂げ、不穏な空気が流れる黒死館には、降矢木家を継いだ17歳の少年・旗太郎と、算哲が集め長い間、黒死館から一歩も出ていない「門外不出の管弦四重奏団」の西洋人四人、家人、使用人らが残された。
「弦楽四重奏団」の一人ダンネベルク夫人が毒殺され、法水麟太郎と地方裁判所検事の支倉肝が捜査に乗り出すが、法水が饒舌に語る神秘思想、占星術、宗教学、物理学、医学、薬学、紋章学、心理学、犯罪学、暗号学などの膨大な情報は、殺人事件の手掛かりなのか無関係なのか判然としないまま、事件を解決するという探偵小説の主題を呑み込むまでになっていく。本書を読むと後世のミステリに与えた影響の大きさがよく分かり、乱歩の「序」が正しかったことがうかがえる。
雑誌「新青年」の1934年4月号掲載の、『黒死館殺人事件』連載第1回。
『黒死館殺人事件』単行本は1935年5月、新潮社からから函入りで刊行された。
函の背のデザイン。
『黒死館殺人事件』単行本の化粧扉。
本文の巻頭には江戸川乱歩の「序」が掲載された。
乱歩に続いて甲賀三郎の「序」も。
『黒死館殺人事件』本文の冒頭のページ。
『虚無への供物』は、碧川潭の筆名で会員制の同人誌「アドニス」(21号~23号、26号)に4回掲載されるも未完。全体の半分までを書き上げ、塔晶夫の筆名で1962年の第8回江戸川乱歩賞に応募するが次席となった(受賞作は、戸川昌子『大いなる幻影』と佐賀潜『華やかな死体』)。1963年2月、後半部を加筆し塔晶夫名義で講談社から刊行された『虚無への供物』が、中井英夫名義になるのは三一書房版『中井英夫作品集』(1969年10月)に収録されて以降である。入手難の「アドニス」版『虚無への供物』は、「小説推理」の2005年1月号に一部が復刻されている。
パリにいるフィアンセの牟礼田俊夫から、遠縁の氷沼家で不吉なことが起きるという手紙をもらった探偵作家志望の奈々村久生は、友人の光田亜利夫に友人の浪人生・氷沼藍司を紹介してもらう。氷沼家は、先代の紫司郎が洞爺丸沈没事故で、朱美が広島の原爆で、光太郎が函館大火で亡くなるなど不幸が続き、現在は、紫司郎の長男・蒼司が実質的な当主になっていた。久生は探偵小説らしく名付けた「氷沼家殺人事件」を阻止するべく動き出すが、氷沼家の風呂場で蒼司の弟・紅司の死体が発見される。
久生は、帰国した俊夫、亜利夫、氷沼家の後見人的な藤木田老と推理合戦を繰り広げ、解決の鍵になるとされる蒼司らの曾祖父・誠太郎に弾圧されたアイヌ民族の復讐、江戸の五色不動、薔薇、部屋の色などについてペダンチックな議論を続けていく。
古今東西の探偵小説を引用しながら進む『虚無への供物』は、探偵が推理に使う手掛かりに必然性はなく恣意的に選ばれたに過ぎない、なぜ本格ミステリの犯人は手間がかかり発見されるリスクも高いのに被害者を装飾するのかといった一種の探偵小説論を展開しながら進み、最も意外な犯人を名指しすることでミステリの構造そのものを批判している。
『虚無への供物』が提示したミステリ論は、第一次世界大戦で生まれた大量の死体が、尊厳ある死を描く本格ミステリというジャンルを生んだとする笠井潔の大戦間探偵小説論などに影響を与えている。
(末國善己)
『虚無への供物』単行本は1963年2月、講談社から刊行された。
巻頭口絵には、著者・塔晶夫が愛犬のテリア「ローラ譲」とともに写る写真が。
『虚無への供物』本文の冒頭のページ。


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