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「その他、企画」第6回2025.2.14 FRI

鮎川哲也特集(2)

鮎川哲也、本名名義の時代

 病癒えて鮎川哲也が再び上京したのは1953年である。同人誌の「密室」に作品を発表するようになり、例会の席で「探偵実話」の山田晋輔編集長を紹介されて、本名名義で同誌に短編を発表するようになった。なかでも19549月号に掲載された「赤い密室」は、翌年度の探偵作家クラブ賞の候補作になって注目を集めた。惜しくも受賞には至らなかったけれど……

  • 「探偵実話」1954年9月号の表紙。

  • 「探偵実話」同号の目次。右側に〈中川透〉名義の「赤い密室」が載っている。

  • 掲載された「赤い密室」の扉ページ。「探偵実話」への執筆はここから始まった。

 とはいえ、その後の作家活動が順調だったわけではない。「赤い密室」の翌月には「山荘の一夜」と「ダイヤルMを廻せ」をやはり「探偵実話」に発表しているが、前者はQ・カムバア・グリーンなる架空の外国人作家の作品の翻訳の体裁をとっていたし、映画小説と銘打たれた後者は〈青井久利〉名義だった。そして本名の〈中川透〉名義の作品も必ずしも本格物ばかりではなかったから、まだ暗中模索の時代が続いていたと言える。

  • 「探偵実話」1954年10月号の表紙。

  • 「探偵実話」同号の目次。中央に架空の外国人作家名義の「山荘の一夜」、その二つ左に〈青い久利〉名義の「ダイヤルMを廻せ」が載っている。

  • 掲載された「山荘の一夜」の扉ページ。「本邦未訳のアメリカ傑作!」の扱いになっている。

 驚かされるのは19561号から「読切特撰集」に連載された掌編の探偵絵物語だ。「探偵実話」の山田編集長が同誌の発行元の双葉社に転社して紹介されたものだが、四つの名義を使い分けての、『黒いトランク』の刊行が定まらない不安定な作家生活のなかでの異色作である。もっとも『黒いトランク』刊行後もその連載は続けられている。原稿料はわずかなものだったはずだが、山田編集長への恩義を感じていたのは間違いないだろう。

  • 「読切特撰集」掲載の掌編では四つの名義を使い分けていた。

  • 〈藤巻一郎〉名義の「出獄第一歩」と「最後の接吻」。

  • 〈猿丸二郎〉名義の「処刑の広場」と「退屈なエマ子」。

  • 〈畷 三郎〉名義の「アドバルーン殺人事件」と「激闘の島」。

  • 〈五反田四郎〉名義の「ヨットの野獣」と「舞踏会の盗賊」。

    四つの名義の名前は〈一郎〉〈二郎〉〈三郎〉〈四郎〉と、分かりやすい付け方だ。