鮎川哲也特集(1)
鮎川哲也、模索の時代
周知の通り、鮎川哲也が〈鮎川哲也〉というペンネームを用いるようになったのは、1956年7月に『黒いトランク』を刊行したときからである。それは未知の新人という期待感を喚起させるためだったろう。もちろん探偵小説界ではそれ以前の創作活動は知られていた。
鮎川哲也の記念すべき小説第一作は、〈佐々木淳子〉名義の「ポロさん」である。「婦人画報」1943年6月号の朗読文学募集での入選作だった。新宿のアパートに同宿していたロシヤ人がモデルである。その後、肺に病を得て家族の住む満州(現・中国東北部)の大連に戻り、そこで『ペトロフ事件』の初稿を書き上げるのだが、戦争中のことで出版の当てはなかった。
「婦人画報」1943年6月号の表紙。
「婦人画報」同号の目次。「朗読文学」の欄に〈佐々木淳子〉名義の「ポロさん」が載っている。
掲載された小説第一作「ポロさん」のページ。
終戦後、九州の疎開先から上京して、文筆家への意欲を見せはじめる。その最初が「LOCK」の1948年1月号に掲載された「月魄」である。ペンネームは本名の中川透をもじった〈那珂川透〉だった。さらに〈薔薇小路刺麿〉名義の「蛇と猪」で「LOCK」の懸賞に入選し、〈中河通〉名義や〈青井久利〉名義でも文筆活動を続けるが、結核を患って九州に戻る。
「LOCK」1948年1月号の表紙。
「LOCK」同号の目次。中央に「月魄」が載っているが、〈那珂川透〉の著者名が〈珂珂川透〉と誤植になっている。
掲載された「月魄」の扉ページ。
その地で大きな期待を抱いたのは、1949年に募集された「宝石」の懸賞小説である。なにより高額の懸賞金が魅力的だった。薬も買えるし上京の資金にもなる。そして短編部門で〈中川淳一〉名義の「地蟲」が候補となり、長編部門で本名名義の『ペトロフ事件』が入選する。引き続き「宝石」に「楡の木荘の殺人」、「悪魔が笑う」、「雪姫」と短編を発表したが、経営難の「宝石」からは懸賞金や原稿料が満足に払われなかった。失意のなか、九州の寒村で『黒いトランク』の初稿を書き進めるしかなかったのである。
「別冊宝石」1949年12月号の表紙。
「別冊宝石」同号の目次。〈中川淳一〉名義の「地蟲」が写真中央に載っている。
掲載された「地蟲」の扉ページ。
「別冊宝石」1950年4月号の表紙。
「別冊宝石」同号の目次。懸賞小説長編部門入選作として、『ペトロフ事件』が載っている。
掲載された『ペトロフ事件』の扉ページ。このときは本名の〈中川透〉名義
「宝石」1951年5月号の表紙。
「宝石」同号の目次。やはり本名〈中川透〉名義で「楡の木荘の殺人」が載っている。
掲載された「楡の木荘の殺人」の扉ページ。「宝石」への短編掲載が、ここから続いていく。
「宝石」1951年8月号の表紙。
「宝石」同号の目次。〈中川透〉名義の短編「悪魔が笑う」が載っている。
掲載された「悪魔が笑う」の扉ページ。永田力の挿絵も力が入っている。
「宝石」1951年10月号の表紙。
「宝石」同号の目次。中央に載っている「雪姫」は〈中川淳一〉名義で。
掲載された「雪姫」の扉ページ。