探偵春秋
精力的な出版活動を背景に創刊された「探偵春秋」
1935(昭和10)年からの数年間、日本の探偵小説界はこれまでにない隆盛期を迎えた。「ぷろふいる」を始めとしていくつも専門誌が発行され、単行本が数多く刊行されている。そのなかで、もっとも探偵小説に意欲的だったと特筆されるのが春秋社である。当時の探偵雑誌にある広告をみれば、傑作探偵小説叢書の名のもと、夢野久作『ドグラ・マグラ』、木々高太郎『睡り人形』、江戸川乱歩『人間豹』、横溝正史『鬼火』、海野十三『深夜の市長』、小栗虫太郎『二十世紀鉄仮面』といった探偵小説史に欠かせない作品が並んでいる。また、翻訳ものも話題作を多数刊行した。その春秋社が1936年から翌年にかけて発行した月刊探偵雑誌が「探偵春秋」である。
春秋社は1918(大正7)年の創業で、わが国最初の『トルストイ全集』『ドストエフスキー全集』を刊行、高野辰之『日本歌謡史』や中里介山『大菩薩峠』など、文学、思想、哲学、音楽関係を中心とした出版社だった。探偵小説を手掛けるきっかけは、35年1月刊の『ドグラ・マグラ』である。謡曲の関係から神田豊穂社長の知己を得た久作が、十年かけて書いた異色長編を持ち込んだのだ。直接担当したのは社長の子息の神田澄二である。3月刊の大下宇陀児『毒環』以降、毎月探偵小説本を刊行した春秋社は、その年、創作探偵小説の募集を行うほどだった。
おそらく日本で初めての試みと思われるこの長編探偵小説募集で一席に入選したのが、蒼井雄『船富家の惨劇』だが、36年3月に刊行されたとき、選考経過報告を兼ねた小冊子が挟み込まれた。その小冊子のタイトルが「探偵春秋」だった。4月に北町一郎『白日夢』、5月に多々羅四郎『臨海荘事件』と、同懸賞で二席入選した作品が刊行されるごとに挟み込まれた冊子版「探偵春秋」は、六号まで発行されている。それを発展させ、営業誌として十月からスタートしたのが「探偵春秋」だった。
江戸川乱歩『幻影城』所収の「探偵小説雑誌目録」によれば、出版についていろいろ相談していた江戸川乱歩に名義上の編集長を頼んだというが、乱歩はこれを辞退した。乱歩は「探偵春秋」についてこう記している。
編集には初めは春秋社主の息子さんの神田澄二君が当り、終刊に近く野上徹夫君が入社して編集することになったが、素人ながら澄二君の手腕は、準縄に捉われざる活気躍動するが如き編集振りであって、売価頁数など丁度同じ位の「ぷろふいる」の一大敵国となり、両誌競って内容の整備、頁数の拡張を計るような事となった。
ガードナーやシムノンの長編探偵小説を一挙掲載したりできたのも、出版と連動してのことだったろう。探偵小説専門の出版社ではなかっただけに、執筆陣に柳田泉、鷲尾雨工、海音寺潮五郎、林房雄らがいて、同時期の探偵雑誌とはひと味違う内容となっている。野上徹夫を中心に評論にも多くのページを割いた。ただ、日本人の創作はあまり多くない。
春秋社の探偵小説本は、『ドグラ・マグラ』を最初として、二年で四十冊を数えるほどのペースだったが、その売れ行きは芳しいものではなかったようだ。神田澄二のエッセイによれば、部数は二千五百とか三千で、しかもかなり返本があったらしい。38年には在庫本を特価販売したほどである。「探偵春秋」の部数も自ずと推定されるだろう。
創刊から一年も経たない37年8月、合計十一冊をだしたところで「探偵春秋」は廃刊となった。6月から連続して当局の忌諱に触れて削除処分を受けたことも影響したのだろう。翌38年8月、甲賀三郎、大下宇陀児、そして木々高太郎の三人の傑作選集を春秋社が刊行した際、月報のようなかたちでまた「探偵春秋」と題した冊子を挟み込んでいる。三度目の「探偵春秋」は、この選集が39年7月に中断するまで、十冊出された。
一年も続かなかったけれど、戦前の探偵小説の出版において大きな貢献をした春秋社による専門誌として、「探偵春秋」の存在意義は大きい。