ぷろふいる
戦前の探偵文壇の「今」を反映し、ファンの熱気に満ちた雑誌
戦前の探偵小説界を代表する雑誌としてよく挙げられるのは、1920(大正9)年に創刊された博文館発行の「新青年」である。確かに多くの名作が掲載されているが、翻訳を中心とした増刊号を除けば、探偵小説の専門誌を意図した雑誌ではない。マニア的な読者、いわゆる「探偵小説の鬼」たちが集まって語りあう場ではなかった。
その「新青年」と並行して、探偵小説専門の雑誌がいくつか発行されたなか、とりわけ印象に残るのは、1933(昭和9)年5月に創刊されたぷろふいる社発行の「ぷろふいる」である。1937(昭和12)年4月の終刊まで、月刊で合計48冊という数の多さもさることながら、主だった探偵作家が寄稿し、当時の探偵文壇の動向をヴィヴィッドに伝えていたからだ。
京都の資産家の熊谷晃一が発行人となり、京都に編集部のおかれた「ぷろふいる」は、創刊にあたって、探偵小説の読者に、“探偵雑誌(ぷろふいる)は、主として無名新作家の作品発表の機関として、その登龍門たり得れば望みは達しられるのであります”と述べた葉書を送っている。創刊号は78ページ、定価20銭だった。山下利三郎(平八郎)の連載に山本禾太郎の短編、西田政治によるビーストンの翻訳やエッセイと、執筆陣には関西の探偵小説愛好家が集っていた。新人では波多野狂夢の短編があり、創作の募集もなされていた。
しかし、創刊して何か月もたたないうちに、関西をホームグラウンドにして新人発掘を目指すという編集方針が崩れる。東京支局をもうけ、在京の作家にも寄稿を仰ぐようになったのだ。8月号には甲賀三郎のエッセイ、9月号には橋本五郎の短編や江戸川乱歩のエッセイが掲載されている。その9月号から、ぷろふいる社は東京渋谷区に移った。ただし、編集部は京都のままである。創刊2年目となる1934年1月号は、144ページとヴォリュームもアップし、甲賀三郎の連載に橋本五郎、山本禾太郎、小栗虫太郎の短編、森下雨村、江戸川乱歩、大下宇陀児、水谷準、海野十三らのエッセイと目次も華やかだった。
こうして「ぷろふいる」は探偵文壇の現在を反映する雑誌に変身していく。それは、小栗虫太郎や木々高太郎など個性的な新人が登場したことが刺激となって迎えた、日本の探偵小説の隆盛期と重なっていた。「ぷろふいる」の誌面に活気がでてくるのは必然とも言える。
「ぷろふいる」には当時の探偵作家がほとんど登場した。小説こそなかったが、江戸川乱歩は「鬼の言葉」や自伝的な「彼」といった随筆を連載した。評論も活発な意見交換があった。森下雨村から紹介されて登場した井上良夫が、評論や翻訳に活躍したことは特筆されるだろう。読者からも、毎号、熱のこもった鋭い意見が寄せられていた。ただ、創刊時に意図した新人作家の登龍門としては、十分な成果をあげたとは言えない。左頭弦馬、大畠健三郎、西尾正、蒼井雄、若松秀雄、斗南有吉、山城雨之介、光石介太郎、金来成、西嶋(西島)亮、平塚白銀らが代表的な「ぷろふいる」の新鋭だが、蒼井雄以外、探偵文壇に残した足跡は小さい。
それでも新人の紹介は毎号つづけられていた。1936年には、大下宇陀児「ホテル・紅館」や蒼井雄「瀬戸内海の惨劇」が連載され、甲賀三郎と木々高太郎を中心にした探偵小説論争が話題を呼んだ。翻訳も、クイーン「飾窓の秘密」(フランス白粉の謎)やセイアーズ「ストロング・ポイズン」といった長編が連載されている。毎号130ページほどながら、充実した誌面だった。
その「ぷろふいる」が突然廃刊になったのは1937年4月である。次号から「探偵倶楽部」に改題すると予告したものの、その新雑誌が出ることはなかった。3月号より編集部を東京に移した矢先の出来事である。発行者の経済的な事情と伝えられているが、当時、探偵小説の単行本の発行部数は多くて三千部くらいだったというから、「ぷろふいる」が商業誌として成り立っていたとは思えない。そして、同年の日中戦争勃発で、日本は戦時色を強めていく。探偵小説そのものの存続が危うい時代が目の前に迫っていたのだ。引き際としてはちょうどよかったのかもしれない。